今後わたしはフェミニストを名乗っていきたい。
そこで、今日はフェミニズムとわたくし。についてブログに書きます。
高校時代
高校のときに美術のサマースクールに参加した。米国の美大のキャンパスを借りて授業が行われ、高校生は大学寮に住む。講師たちは現役の現代美術家たちだった。
そこで私は初めてフェミニストアートというものに触れた。
女性器から鉄の機械が出ている絵があった。中絶に関するメッセージが込められているそうだ。
アバンギャルド、というやつで、前衛的なのだと知った。
「フェミニストアートってやたら女性器が出てくるしおっかない」と思った。当時はあまり好きではなかった。
ジョージア・オキーフの作品なら綺麗だし好きだったけれど。
↓オキーフの作品
大学時代
大学に入って美術を学び、フェミニストアートについても習った。ジュディ・シカゴやゲリラガールスズなどの作品が印象的だった。
https://www.guerrillagirls.com/#open
いずれの作品も、フェミニストアートは展示されると抗議がすごく起こるらしい。ジュディ・シカゴの『ディナーパーティ』という作品はせっかく展示会を開いても、猛抗議を受けて会期を短くしなければならなかったらしい。
↓ディナーパーティ
社会人時代
社会人になり、私も社会でいかに女性の地位が低いか学生時代よりもシビアに感じる日々になった。お決まりのセクハラにも当然のように遭う。
そんな中、フェミニストアートを折に触れ思い出した。
初めてみたときは怖かったけど、あの作品を創って展示までする女性たちは、すごい人たちだったんだ。とんでもない勇気と胆力の持ち主だったんだな、と理解するようになった。
5年くらい前
ある日本の現代美術家が女性器をモチーフに個展を開くと知った。告知を見る限り女性器をあからさまにフィーチャーしている。私は思った。
「会期が短くなるかもしれない、これまでのフェミニストアートのように弾圧されるかもしれない。これは早めに見に行こう」
後に彼女の作品も彼女も、案の定弾圧されていた。悲しかった。
messy
彼女の個展がきっかけで、messyというサイトで文章を書かせていただくこととなった。
立ち上がったばかりのそのサイトは、「エロを隠れ蓑にしたフェミニズム」を体現していた。少なくともと私はそう思った。フェミニズムをあまり表に出すと、早々にサイトは潰されてしまう。だからエロを隠れ蓑にしているのだ。私は唸った。
「素晴らしい戦略だ」
そして
それ以降、私はmessyで書かせてもらうことを誇りに思ってきた。
高校のころからこれまでの人生で見た、リスクを犯してフェミニスト思想を訴えるアーティストたちのスピリットに少しは習えたような気持ちになれたから。
彼女達の作品に敬意を表して自分の連載にも「まんこ」という単語を使わせてもらった。messyでなくてはできなかったことだ。
けれど今
けれど、あらゆるフェミニスト的表現は、潰されやすいという法則は21世紀になっても2018年になっても生きているようです。
標的にされちゃったんだろうな、と思う。
それは、隠れ蓑をかぶせていても、意義あるメッセージを伝えていたからこそ。中身のフェミニスト的メッセージが光っていたからこそだ。
だから悲しむ必要ないのかもしれない。