ここ(http://haguki-lovey.hatenablog.com/entry/2020/08/09/210630)に書いたような状態に私はよく、なる。
自分が本当にここに生きてんのか、死んでんのか、存在してんのか。ここはどこなんだ? アメリカ? 日本? 私は何歳? とか混乱してわかんなくなる。ヤバい人だ。ただのキチガイと思ってくれ。
今回疫病のさなか、わがままを言って無理に会をさせていただいた。
Oちゃんの番組を家で一人で見たらもっと不安定になってたと思う。今回、周囲に人がいて自宅じゃなかったおかげで現実との接点が保てた。関係者各位には心からお礼申し上げたい。
などと考えていたらY先生のことも細々と思い出した。忘れないうちに書き留める。
卒業の際に「超誉れ」の賞を逃した(この件→ http://haguki-lovey.hatenablog.com/entry/2020/08/08/234133)と聞き、烈火のごとく怒ったのちにギャラリーに私の作品を展示してくれたY先生だったが、私は
「どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう?」
とずっと不思議だった。
歳とって、自分より若い人が死ぬのを見るのが辛いのもあって気づいた。Y先生、私の希死念慮を嗅ぎつけてたのかもしれない。
「こいつこのまま死ぬんじゃね?」
と心配して、労わってくれたんじゃなかろうか。推論でしかないけど。
Y先生のことを少し説明する。当時すでに70歳代、生気に溢れてキレキレだった。歩く才能、みたいな。いろんな意味で鋭すぎるので注意しながらじゃないと近づけない。授業では訳のわからないことを延々しゃべるんだけど、私はそれがべらぼうに面白いと思っていた。
ある授業でY先生は一冊の本を胸に抱えて登場した。
「俺の親友が出した本だ。自殺した。」
いつもハイテンションな大声での講義スタイルの先生が、ぽつりと言ったので記憶に残ってる。
けど「辛いだろうな」とか「寂しいだろうな」などとはつゆほども思わなかった。想像すらしなかった。まだガキだったから。
数年後、私は学校の図書室でY先生を見かける。書架の前に突っ立っていたからあいさつした。とはいうものの、コミュ障の私は世間話ができない。書架に目をやった。いつぞやの本がある。私は何気なくそいつを棚から抜き出した。
「お前、なんでこれにしたんだ!?」
本を眺める私にY先生は血相を変えて聞いた。
「へ?」
「なんでこれにしたんだよ!?」
息せききって畳みかける先生にびっくりして、
「や、これ、先生のお友達の本でしょ……?」
しどろもどろ、答えると
「何で知ってる!?」
と驚く。
「授業で見せてくれたから。それで……」
「Oh」
とつぶやいたきり、Y先生、一言もしゃべらなくなった。
いつもマシンガンのように喋る人なのに、黙ってるから気味悪くてしょうがない。そそくさとその場を立ち去った。
また別のとき。
カフェテリアでY先生がワイフ1号の写真を見せてくれた。
「モデルだ。双極性障害だった。水泳してて死んだ。」
白黒の写真はA5くらいのサイズだっただろうか。印画紙越しに美しい女性と目が合った。彼女は髪をゆったりとした70年代のアップスタイルにして、アンニュイに頬杖をついている。
紙に何十年も前の一瞬がそのまま焼き付けられていることが不思議だった。写真には触れることができるのに、ここに写っている人はもうここにはいない、それが信じられなかった。
またべつのとき。
Y先生は、ニューヨークタイムスの記事を拡大コピーしたものをくれた。今でも持ってる。この記事を先生がくれた意味を私は日本に戻ってから、身をもって理解することになる。
卒業式にて。
美術大学に入学できたこと、そして、なんとか卒業できたことは、私にとっては人生で一位二位を争う「うれしかったできごと」だ。
卒業式で、Y先生はまた怒ってくれた。
「お前の両親は卒業式にも来ねえのか! クソだ!」
カンのいい人だなと思った。
ふつうの人は、こういうことが我々のような人間にじわじわと及ぼすダメージまで想像しないし、できない。できたとしても、こういう状況でなんて言ったらいいか、わかんないだろう。
そんな時に「誉れ」の件もあってちっちゃなハートがざらついてた私に、Y先生のこの一言は、とても、沁みた。
ありがたかった。
卒業式で先生はこうも言った。
「日本行くのか? そうか、お前のことは心配してねえよ! うん、お前は大丈夫、心配ねえ! うん、ぜんっぜん、心配してねえから!」
心配してない。お前は大丈夫。
何度も、そう繰り返し、笑って送りだしてくれた。
私が今でもだましだまし生きていられるのは、Y先生始め、いろんな方々の「想い」のおかげでしかない。