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ご年配の方というのは、他界するちょい前に、今まで言わずにいたちょっと気まずくて情報量の多いことをぽんっ、と胸の内から吐き出したくなるのかな。
父方と母方、2人のおばあちゃんたちは、そういう内容の話を私にして、亡くなっていった。
祖母たちがそれですっきりして天国に行けたなら私も嬉しいです。けれど聞かされた内容を1人で抱えるしかない私は、イイ歳になってもその記憶を少々持て余している。
持て余す記憶に、生気を吸い取られるようだ。
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両親は赤ん坊だった私の額にアイロンが落っこちた話を笑いながら話す人たちだった。
お前の額に傷が残っているのはそのせいだ。そのとき血がどれだけ出たことか。お前はたくさん泣いた。だが、我々は決して病院に連れて行かなかったのだ、云々。
私の額の傷を指さしながら、彼らは誇らしげに語る。げらげら笑いながら。
彼らの頭の中では、「医療に頼らなかった俺らの武勇伝」として記憶に残っているのか。もしくは「ほっこり子育て思い出話」なのだろうか。
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それを聞くと、私は今にも倒壊しそうな家を見ている気分になる。基礎からズレている。
ひとつひとつのパーツのズレはちょっとしたものかもしれないけど、出来上がった全体は修復不可能の取返しのつかないことになっている。
なのに「上手く建っている」ように彼らには見えるのだから人間の認知とはまこと、千差万別なのだと思う。
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子供のころ苦しかったのは、こういうものの見え方を "家族" と呼ばれるひとたちと共有できなかったからだと思う。私には歪んでいるようにしか見えないものが彼らにとっては「誇り」だったりする。
「数センチずれていたら、私、普通に死んでましたよね?」
それを彼らには絶対言ってはならないのだ。
自分のものの感じ方を否定されると、生きる気力はどんどん少なくなっていく。
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もし祖母二人がいなかったら、この両親2人によって私が物理的に死んでいた可能性は高そうだ。
悪気なく殺しそうだから怖い。そして殺しても「自分が犠牲者だ」と主張するタイプの人たちだから、身の安全のために近づきたくない。
だから、祖母2人には感謝している。
けど、亡くなる前に打ち明け話されるのはそれなりに重い。寒い時期には重さがさらにずっしりくる。