父親相手のパパ活と共依存

  パパ活・ママ活状態から抜け出したかった私は15の頃に「就職したら親と縁を切ればいい」と考えはしたが、それはあくまでも心の拠り所だった。縁を切らずに済むならそれに越したことはない。
 先生たちは大卒資格があれば高卒より良い条件で就職できると言っていた。就職すると引っ越し手当が出たり独身寮というところに住める場合もあるらしい。恭順の意を示しまじめに働きけばお給料は徐々に上がっていき、ボーナスが年に2回出る。会社を首になることはほぼないのだとか。それが私が15歳のころの日本の常識で、とにかく大学卒業までこぎつければあとは経済的に自立できるはず。そう信じていた。

 皮肉にも「縁切り」の必要性をより強く感じたのは社会人になった頃からだ。

  15歳の頃、自分を鼓舞するために唱えたおまじないを本当に実行する日が来た背景に社会の変化が大きく関係したのは間違いない。

 大学卒業後、日本は就職氷河期真っ只中。私は1年更新の契約社員。給料は手取り17万で上がることはない。ボーナス・住宅手当・引っ越し手当いずれもなし。独身寮は正社員のみ入居が許される。

 会社に女性の管理職はいなかった。というか、女性の正社員が2-3人しかいない。ちらほらいる他の女性は私のように非正規で働く人たちだった。職場に女性が少なく、にオープンリーLGBT+の人に至っては1人もいない風景は私には歪んで見えた。

 大学を出ても正社員になれず、給料もこんなに安いのかとがっかりしたし、日本ではLGBT+という言葉さえその頃まだ普及していない事実に驚いた。雇用機会均等法はどこに行ったのだろう? 大人になるころには職場の男女比率が5:5になると思い込んでいた私に現実はなかなか呑み込めないものだった。

 帰国したばかりで日本での足場がない私はとりあえず実家に身を寄せ、北関東から東京に通勤していた。

  入社3日目くらいだったろうか。父が勤務先から奇妙なメールを送ってきた。

  自社の新製品を紹介するプレスリリースと父からの私信がごちゃまぜにコラージュされたような文面。統一されていない文体や意味の分からなさには、怪文書のような気味の悪さがあった。

 一旦そのメールは無視して自分が本来やるべき仕事に集中した。帰宅すると

「メールは見たのか、なぜ返事を送らない」

父から叱責された。

  よくよく事情を聞くと要は

「ウチの新製品をお前の会社に売り込め」

ということらしい。呆れた。

   そんなことはできないと断ると父は私を罵った。

「お前は馬鹿だから分かっていない。上司にちょっと言うだけでいいんだ。そのくらいしたっていいだろう。お前のためにもなる」

 他社の製品を売り込んで評価が上がる契約社員がどこにいるというのか。 

  彼の狂った頭の中の世界において、私は意のままに動かせる駒の一つにすぎないのだろう。服従しなければ頬を2-3往復ビンタしてやれば従順に動く。

  父は共感性が皆無、狂暴で狂っているにも関わらず(あるいはそうだからこそ)社会では順当に出世していた。「子持ち」というステータスも父の色んな瑕疵の隠れ蓑として便利だったに違いない。   

  狂人の子どもとして様々な被害を被っていた私は、父との関係を「パパ活」と割り切っていたからこそ正気を保てた。その反面、私の「パパ活」は彼をますます増長させる一因になったのかもしれない。

  だがそのお陰で彼が出世し莫大な収入を得ていなかったら私の「パパ活」は必然的に終わったはずで……

  卵が先か鶏が先か?  考えれば考えるほどごちゃごちゃになる。親子でのパパ活・ママ活と共依存紙一重なのだろう。

  ともかく学費という大金を引く必要がなくなった以上、これ以上尊厳と引き換えに父の犬になるつもりはなかった。

   父の会社の売り込みは、直接何度も断った。自身の社内での立場や仕事のフローも説明した。常識的になぜそれが無理なことなのか、そこから説明しないといけなかった。だが父は理解しない。

  すでに私は「狂人の子供」という立場を放棄していた。それを父はどうしても理解できないようだった。

  それも当然だった。父は自分が狂っているなどとは露程も気づいていないのだから。重篤な病人ほど病識がないものだから。

「この人たちと関わり続けると私の周りにも迷惑がかかり、大切な人たちにも嫌な思いをさせたうえ、私も社会的に死ぬだろう」

いよいよ確信した。

  お金さえ稼げれば「パパ活」を終えられると思った私が甘かった。仕事なんかより、両親からの毒が仕事先まで及ばないようにしつつ、自身も邪気を喰らわないようにするほうがよほど大変だった。

  (就職してお金を家に入れるようになっても両親がまだ私の「パトロン」気取りなのは私が実家に身を寄せる「借り」状態にあるからだろう……)

  実際にはそう単純ではないのだが、まだ若かった私は愚直にそう考えた。

 せっかくつかんだ社会への道を台無しにされる前に早く実家を出るべきだ。そのためにも早くお金を貯めたい。

  手取り17万のうち、8万を家賃電気水道光熱費として毎月両親に支払っていた。母に要求されたままの額だった。それが高いのか相場通りの額なのか、私には分からなかった。

  家で食べるのは耐えられないから食費も自分で賄っていた。

  東京への引っ越し費用を貯めるのに何カ月かかるだろうか。

  さらには一旦引っ越せたとしても手取り17万で東京でやっていけるのだろうか。

 日本の実家に戻った私は、社会から孤立していた。友人や知人がおらず、相談できる人がいないことも相まり、身動きが取り辛い。

 消化しきれないストレスや疲労は心と体にじわじわと効く毒のようだった。病院代・薬代がかさみ始めたのもこのころからだ。

   結局、全ての鍵になるのはお金なのは変わらずで、私は依然として全てが金に換算される世界に生きていた。

  ストレス由来の病気でくたばるか、引っ越して逃げ切れるか、お金が尽きるか。私のチキンレースが始まった。