『ドライブ・マイ・カー』 雑感と考察 いい意味で裏切られる映画 見る前と後では違った自分になっているかも!?

  食わず嫌いしていた『ドライブ・マイ・カー』を見た。

アカデミー賞受賞他、大絶賛されてることを知ってはいても「こういう『中年男性の実存の危機(existential crisis)』がテーマの映画、感情移入できないし好きくないんだよなぁ」と勝手に映画のことを決め付けてしまい、気が進まなかったのだ。

予告編のスタイリッシュな映像や原作が村上春樹であることなどからも「しゃらくさそうでなんか嫌」という雑な先入観をもっていた。

鑑賞してみて今、自分がいかに差別まみれであるか、この映画に不当な嫌悪感を抱いていたかに気づき反省している。

同時に「これは頭で読み解く映画なんだ」と気付いた。
むしろ感情移入を拒むように作られている。
そしてそれこそが今作のテーマそのものだった。

本作のテーマは私が最初に決め付けた「中年男性の存在の危機」などではない。
「他者を理解するには感情や先入観や見た目に惑わされがちな己をまずは見つめないといけない」ということがテーマではないかと今は思う。

登場人物とプロローグまでのお話し(そこそこネタバレあり)

【登場人物とプロローグまでのお話し(そこそこネタバレあり)】

◯家福=(西島秀俊) 主人公。妻の音が浮気する現場を見て見ぬふりする。愛車のSAABで事故に遭い、左目の緑内障が発覚。音との対話を避けた夜、悲惨な事故が起きる。

◯音=(霧島れいか)  性交後、家福と物語を聞かせる。その1つに「前世がヤツメウナギだった恋する女子高生」の物語がある。家福との間の4歳だった娘を亡くしている。

◯高槻=(岡田将生)  音の浮気相手。

感想(そこそこネタバレあり)

【感想(そこそこネタバレあり)】

家福は舞台俳優や演出家として成功しており、美しい妻と美しい家に暮らす容姿の美しい男だ。
妻とも深く愛し合っている。
しかしこれらはあくまでも「見た目」の話。
プロローグの段階で我々は早々に知らされる。
彼は美しい外見からは到底想像できないような異常性も持ち合わせる人間だということを。

映っている。写っている。見る。観る。

監督は「目」「鏡」のモチーフを繰り返すことにより「本当に他者を『知る・見る』とは一体どういうことなのか?」という問いを我々観客に投げかけているようだ。

ある日、妻の浮気現場を鏡越しに目撃する家福。
それを受けて何もせずただ静かに家を出るのみ。
数時間後には笑顔で妻とPC越しに通話している。

一体この夫婦はどういう神経をしているのだろうか? 
まさに「目を疑う」場面だ。
夫婦の和やかな会話シーンは浮気のシーンよりよっぽとショッキングだし、グロテスクに私には見えた。

このシーンでは監督がモニターと鏡をワンショットに収めてくれたお陰で、我々観客はいっぺんに両者の顔を正面から観察できる。

監督の映像的工夫にうなる場面であるが、それだけではない。
我々は鏡越しに写る家福、つまり1枚ベールを挟んだ状態でしか彼を見ることができない。
家福の真の人間性は秘密に包まれたままだと監督は強調したいのではないだろうか。

このことは、その後、家福が舞台で観客の方を見て演技できなくなることからもわかる。
家福は舞台の観客のみならず、映画の観客である我々の視線をさえ拒むようになってしまったのだ。
どこまでが舞台で、どこからが映画中での現実なのか、そしてそれが映画を観ている我々のリアリティまでを侵食してくる感がとても面白い。

家福を責める資格は我々にはない

主人公である家福に「見ること」を拒絶されては、映画を観ている我々にはなす術もない。
我々にとって家福(かふく)はその名前の通り「下腹(かふく=下腹部、はらの底)」では何を考えているのか分からない人間であり続ける。
見る側の無力さを感じさせるこの事実は、家福が音の情事を鏡越しに目撃し、なす術もなく退散しことと呼応しているのかもしれない。
我々は浮気を目撃しても何もできなかった家福を責める資格などないのだ、と監督に言われているようだ。

このシーンはさらには 「家福は音をどれだけ真の意味で見ているのだろうか?」という疑問も残るように写してある。
会話のあと、家福は左目が緑内障により少しずつ視力を失っていることが発覚する。
これも家福が見ることや見られること拒んでいることの象徴だろう。

亡き娘の法事から帰宅後、言葉もなしに家福が音にセックスを求めるシーンがある。
戸惑ったような表情を見せつつも結局何も言わずに応じる音。
繋がった状態の2人は絶望したような表情だ。
つまりセックスが言葉でのコミュニケーションの代替にはならないことを示唆しているのではないだろうか。

ヤツメウナギ

ヤツメウナギ

 

セックスの後、音は家福に物語を語るのだが、そこに「ヤツ『目』ウナギ」が出てくることにも大きな意味があるように思った。

ヤツメウナギ - Wikipedia

ヤツメウナギは実際には目のような模様が沢山あるだけで、視力が秀でているわけではない。

2つの目を持つ家福が実際には何も見えていないこととリンクすると思う。

夜が明けて音は「話し合いたい」と家福に告げる。
逃げるようにドライブに出かけた家福は取り返しのつかない事態へと帰宅することになる。

家福が舞台で観客の方を見て演技できなくなるのはこの後のことである。

と、ここまでが映画のプロローグ。
プロローグの段階ですでに禍々しいが続く本編でも波乱しか起きない。
ドライバーのみさきが重要な人物として登場するが個人的には「音の男:高槻」から目が離せなかった。

『ドライブ・マイ・カー』のセラピー的効果!?

私は本作を見たことによって自身の「見る」行為がいかに普段から粗雑か思い知らされた。
『ドライブ・マイ・カー』を観ていると、3時間近いこともあり「映画の中での舞台」と「映画中での現実」の境界がブレンドされてゆき区別がつかなくなってくる。
次第に「映画」が「観ている私」の現実にさえ侵入してくる。
それが自分自身の「見る」行為への問いかけのように感じる所以かと思う。
映画を見ることがセラピーのような効果をもたらし、見る前と後とでは「自分」が少し違った人間になったかのようにさえ思えうのだ。


他にも「車を運転することを人生に例える」など考察ポイント山盛りの本作。

見た人の数だけ解釈がありそうで、世界で絶賛されているのも納得です。

先入観を一旦捨てて見て良かったと思わせてくれる作品でした。

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舞台俳優であり演出家の家福(かふく)は、愛する妻の音(おと)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう。2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去を抱える寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。悲しみと“打ち明けられることのなった秘密”に苛まれてきた家福は、みさきと過ごすなかであることに気づかされていく――。@amazon

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